六  朝から雨が降っている。長くなるのだろう。そんな気配がした。  Kは真新しい傘を取り出し、玄関を出た。軒先で留め金を外す。傘の切先を中空へ向けて、傘を開く。五月の緑の丘をそりで滑り降りるような滑らかさで傘が翼を広げ、ばさっ、と音を立てた。  Kが眠っているうちに振り出した雨はしとしとと、気をつけてみなければ気付かぬ程に弱弱しい。控えめに濡れた地面にはほんのりと靄が立つ。靴で踏むと、さく、さく、とそっと耳を澄ませてみなければ聞こえない音が聞こえてくるように思われた。視線を空へ移す。水に薄墨を溶かしたような色合いだった。一様な色合いのように見えて、ところどころ濃淡があり、それらがゆっくりと流れ行く。抒情的だった。詩が聴こえてきそうな空だった。  丘に着くとKは物見楼にのぼる。雨の日はそこで空の観察を行なうことにしていた。屋根の下に入ると傘の水はできるだけ払い、きれいにまとめて留め金をとめる。それから昼まで、空を眺める。雨が降る。晴れる気配はない。雨が降る。遠くの山々が雨に霞んでいた。不意に白い鳥が一羽、そちらへ飛んでいった。観察録に記録する。  半月ほど前に白い鳥を見つけて以来、初めは二日、三日に数羽見かけたのが次第に頻度が増し、今では毎日見かける。Kの観察録に、鳥、という文字を見ない日はない。  しかし、それがどこからやってきてどこへ行くのだろうという疑問とは、Kは全く無縁だった。Kの仕事は一日の空の様子を記し、図書館に納めることだ。たとえ大火事が街を赤い舌でなめ尽くしたとしても、Kは観察を止めたりはしない。空を見るのは街中探してもK一人だけだからだ。Kがやめたら他に誰が空を観察し、観察録にまとめ、図書館に提出するというのか。Kは先代の教えに忠実である。  Kは楼の縁に肘を乗せ、彼方まで雲で覆われた空を眺める。  旅人が現れる。  街のほうからやって来た旅人は、楼のKを見つけるとにこやかに手を振り声を掛ける。 「そちらで雨宿りさせていただいてもよろしいですか」  特に断る理由もないので、Kは構わない、と答えた。  旅人は時折やって来てはKと他愛のない話――この前、傘の墓場に行ってきましたよ、中々面白いところでした――をする。Kからも、生まれはどこか(海をまたいだ先の小さな国です)、今までどんなところを旅してきたのか(東西南北本当に色々なところですが、一番印象的だったのは大洋で巨大な鯨を見たときでしたねえ)、といったことを尋ねた。――けれど、この街のこの場所から見る夕暮れほど美しいものはないと思います。このように言われたときにはKは誇らしくなるのを隠すのに精一杯だった。  旅人はKの隣に腰を下ろすと、肩から提げた鞄から水筒を取り出し、蓋に茶を注ぐと湯気をのぼらせた。Kに差し出し「いかがですか」と言う。Kはコップを受け取り、一口に飲み干した。不思議な香りのする茶だった。 「この街は面白いですね」 「へえ」 「別に悪い意味じゃない。ただ、今まで見てきた中でもかなりユニークな部類に入ります」  旅人は水筒からコップに茶を注ぎ、仰いだ。はあ、とついたため息は白かった。雨に紛れて消える。 「図書館には行ってみたかい」 「二階へ行く階段の裏に、隠し階段みたいな地下に続く階段を見つけましてね。下りようとした所を司書の彼に見つかってしまい、こっぴどく叱られました」 「それは仕方ない」 「君は下りてみたことはありますか」  Kは首を横に振った。 「人にはそれぞれ、立ち入るべきではない場所や、人を立ち入らせてはならない場所があるものだ」 「耳に痛いですね」 「この街の人間は――いや、この《街》は」  雨が降る。 「この《街》は余所者をひどく嫌う」 「ええ、この街はとても閉じています。しかし、だからこそこんなにも静かで平和だ」  雨が音もなく降る。 「旅人さん、悪いことは言わない。あんたは早くこの街を出て行った方がいい。少なくとも、街の気に障ることは止した方がいい。街はあんたを許さない」 「御忠告ありがとうございます。けれど」  旅人は長い息をついた。雨は止まない。 「けれど、なぜ君は僕に対してわざわざそんなことを言ってくれるのでしょう」 「あんたが面白い異国の話をしてくれる礼じゃないかな」 「そうですか」  それからしばらく、Kと旅人は降り続ける雨を眺めていた。その間にまた一羽白い鳥が飛んでいき、Kは観察録にまた一つ鳥の字を加える。筆を置くとまた楼の縁に肘を乗せた。旅人は軽く瞼を閉じ、指で床に字を綴っていた。何と書いたかKにはわからない。異国の言語だったのかもしれない。  おもむろに、旅人が立ち上がる。 「また、来ます」 「そうか――《街》は快く思わないだろうけど」 「君自身はどうなのですか」 「俺は、俺自身の仕事に差し障りが出ない限りは構わない」 「寛容ですね」 「無関心なだけだろう」  そう言ってKはくすりとほくそ笑む。  雨の日の夕暮れは、昼と夜の境目に気付かずいつの間にか暗くなっているのが常であったが、その日は薄雲の彼方に、はっきりと夕陽が透けて見えた。雲や雨を真っ赤に染めている。  Kは身支度を整え丘を後にするといつもの通りに図書館へ向かう。着く頃にはもうすっかり暗くなっていた。  ホールに着くと、カウンターを挟んで鍵の子が見守りの服の裾を掴んで何やらわめいているのが見えた。嫌な予感がする。Kが足を緩めるのと同時に見守りがKを見つけ、パッと顔を明るくさせる。 「K、交代」 「嫌だ」 「ねえK、聞いてよ、今日さ――」 「じゃあね!」  鍵の子の注意がKに向いた一瞬の隙を突き、見守りは鍵の子の手を振り解き、Kとすれ違いざまにKの肩を叩いた。後は任せた、と宣告して駆け足で通用口へ消えていく。鮮やかと言って相違ない程に、一連の動作に無駄がない。 「今日さ、酷い奴が来たんだよ。今日は雨だってのにさ、傘の水もロクに払いもしないで先っぽから水をぽたぽた垂らしてさ。新入りかなって最初は思ったんだよ。だから、この俺様が優しく優しく注意してやったわけだ。館内では傘入れをご利用ください、ってさ。そしたらそいつさ、と」  鍵の子はカウンターを飛び越え、すっと背を伸ばして気取った風を見せた。紳士のつもりなのかわからないが、何のつもりであっても全く似ていないのは確かなようだ。鍵の子は大またで"優雅に"歩いてみせ、 「『そうか、それは失礼したね、坊や』」  そして演技を解く。Kの方に向き直る。息を吸う。溜める。 「ああ、思い出しただけで腹が立つ! 俺は、坊やじゃ、ない!」 「図書館では静かにするんじゃないのか」 「営業は五時までだ!」 「しかもそいつさ――いや、何でもない」 「そうだな、これ以上はやめておけ」  鍵の子が言おうとした続きはKに限らず観察録に携わる人間なら誰もが察せられるものである。言わば公然の秘密であるが、秘密という体裁を取る以上はみだりに口にしてはならない。地下書庫の存在は特に。 「で、その"酷い奴"は結局どうしたんだ」 「追い出した。永久に立ち入り禁止の処分にした」  まったく、とKは思う。旅人はつくづくとんでもないことをしたものだ。 「ま、これで《街》が納得しなければ、《街》はアイツを煮るなり焼くなり好きにするだろうさ」 「そうだな」  鍵の子は明るく言い放つ。しんと静まり返った空気に閂を刺した玄関が風に煽られけたたましい音がよく響く。人より巨大な何かが戸を叩いているようだった。部外者に地下書庫の存在を知られ、守秘義務を怠った罪で罰せられることを鍵の子は恐れている。もっとも街のルールを真に理解しているのは《街》自身であり、Kや鍵の子を始めとする街の人間には、《街》がどのような基準でどのように罰するのか判断がつかない。唯一わかることは、《街》は誰に対しても公平で正大であることだけだ。《街》は絶対である。 「K」 「どうした」 「また、明日も来るよな」 「ああ」 「俺がいないと、困るよな」 「お前がいないなら、誰に観察録を出せばいい」 「……悪いな、K。預かるよ」  Kは鞄から観察録の入った筒を取り出し、中身を鍵の子に手渡した。 「じゃあ、また明日」  去り際にKは鍵の子の頭を、くしゃくしゃと撫でてやる。  夜が明け朝になると、昨日から降り続く雨は赤く色付いていた。窓を開けると、鉄臭さが鼻腔を突く。赤い雨がしとしとと降る。  なんだこれは。  Kは立ち尽くす。道にできた水溜りは赤く澱んでいた。空の彼方に晴れる気配はない。遠くであの白い鳥がまた一羽飛んでいく。  少なくともKの知る限り、このような赤い雨が降った歴史はない。前代未聞の出来事であるのは疑いの余地のないことであるがしかし、Kの為すべきことはと言えば結局いつも通りに職をまっとうすることに他ならない。Kは身支度を整え丘へ行く。  ――これもまた《街》の意思なのか。  鍵の子のことがKの気にかかる。昨日の、あの怯えた眼を思い出せば、鍵の子が今どのような心地でいるかは想像に難くない。一度顔を出しておくべきか――そう思った頃には既に丘は近く街は遠く、わざわざ踵を返すには遅すぎる時間だった。  Kは楼にのぼる。傘を閉じるとばりばりと音がした。壁に立てかけてできた水溜りはやはり赤く、そして澱んでいる。  空を見遣る。どこからともなく現れた白い鳥は山の方へと飛んで消えていった。観察録に記す。あの鳥はどこから来てどこへ行くのだろう。  こんな日は、きっと、あの旅人が現れるに違いないのだ。  正午を過ぎても相変わらず赤い雨は降り続く。Kはここ数日で起こった出来事を頭の中で並べていた。  白い鳥。  旅人。  そして赤い雨。  この三者に直接の相関があるのかないのかわからないが、少なくともこの三つの出来事が全くの無関係ということはないだろう。何故、こんなことになったのか。そしてこれからどうなるのか――想像しようとしてみてKは自分に何の想像力もないことに気付く。 「雨宿り、よろしいですか」  ふと我に返り視線を下ろすと、件の旅人がいる。藍色の傘を持ち上げ、にっこりと微笑んでいる。その裏にあるものが見えない。 「構わない」 「ありがとうございます」  お世話になります、と旅人は再び傘を持ち上げる。  旅人は傘の水を払い壁に立てかけると、Kの隣に腰を下ろした。 「変わった雨ですね。赤い雨なんて聞いたことがありません」  旅人が口を開く。世間話をするかのような口調だ。あるいは本当に世間話なのかもしれないが。 「俺も長いこと空を見てきたが、こんな雨は初めてだ。赤いだけじゃなく、もう二日も降り続いている」 「お仕事に障りは出ますか?」  Kは鼻で笑い、首を横に振る。嫌な奴だ。 「観察録を濡らさないようにするのが面倒なくらいだ。紙が赤く染まったら鍵の子に叱られる。あいつを怒らせるとうるさいんだ」 「鍵の子とは?」 「昨日、旅人さんが怒らせた奴だよ。図書館の司書をしている」 「なるほど」  それは大変だ、と旅人は苦笑する。Kはそれを横目で盗み見た。赤い雨は降り続く。 「なあ旅人さん。あんたは何故またここに来たんだ? 忠告しただろう。これ以上、《街》の機嫌を逆撫でる前に街から出て行った方がいいって」 「ご迷惑ですか?」 「迷惑とかそういう問題じゃない。はっきり言って、あんたはここに居るべき人間じゃない。ここは俺たちの街で、あんたには故郷というものがあって、そして《街》は"異質"をとことん嫌っている。《街》はあんたに手を下すだろう。色々面白い話を聞かせてくれた友人としてもう一回忠告する。旅人さん、あんたは今すぐこの街から出て行くべきだ」 「友人として、ですか」  くふ、と旅人の頬が緩んだ。嬉しいなあなどと呑気なことを言う。 「君は街の端っこに行ったことがありますか。あそこの城壁のあるところまで」  旅人は外を指差した。その先には、赤く霞んだ城壁があり、それは横に長く伸び、いずれ一周して帰ってくる。Kは首を横に振る。生まれてこの方一度もそこまで行く用事も理由もなかった。それを見た旅人は、やっぱり、といった風に首を横に振る。 「行けないんですよ、街の端には。この街には端というものがない。行けども行けども道、道、道、そしていつのまにか中央広場に帰ってきている」 「なら――」 「ならば僕はどうやってこの街に来たのか。それについては残念ながら今はお答えすることができません。けれど、いつかお話する機会があるかもしれません。確かなことは、この街はまったく文字通りに閉じていて、その中で僕が"異物"であること。それが全ての始まりです」  赤い雨が降り続く。  意味を咀嚼しきれないKの手を旅人の手が包み込む。 「K、僕たちには意思がある。仕組みは意思を無視して時には殺そうとするけれど、完全に息の根を止めることはできない。僕たちは仕組みと意思の間で揺れ続けているんだ。この《街》って奴は大したやり手だったよ。けれど、それでも勝てなかったんだ」 「もう少しゆっくり、順番に言ってくれ。何がなんだか――」 「次に会うときはきっと事態はずっと進んでいることだろうね。K、僕たちにできることは世界を変えることでも運命を捻じ曲げることでもない。分かれ道で右に行くか左に行くかを選ぶことだけだよ。本当は全部説明してあげたいんだけどね、それはとても不自然なことだからできない。けど、Kならきっと何かしらの答えに辿り着けると思う」 「意味がわからない」 「K、いつも通りにしていればいいんだ。僕も君も、みんな、特別でも何でもないただの人間だ。そのことさえ忘れなければ、大きく道を踏み外すことはないさ」  旅人はKから手を離す。代わりに手を包んだ空気の冷たさによってKは初めて旅人の手の温かさに気付く。  間もなく旅人は楼を後にする。  傘を持ち上げ、またいつか、と会釈する旅人にKは手を振ると、その背中が坂に沈むのを見届けてから視線を上へ向ける。赤い雨が降る。山の稜線が赤くぼやける。城壁が細々と連なっている。  結局旅人の話は半分も理解できなかったが、何か大きなことが起こっていて、この一連の出来事はそれに関わりのあるものらしい、ということだけはかろうじて理解するのだった。現実感や手応えなどあるはずもない。つい先刻まで、白い鳥と旅人と赤い雨の三つについて考えていたはずなのに、それらが一気に遠のいたように思われる。より漠然と、捉えどころのないものになる。  だから、今しばらくはは旅人の言う通り、いつも通りに過ごす他ないのだ。たとえこれから何が起ころうと、旅人の言う分かれ道にぶつかるまでは、これまで通り空を見続ける。そうすることしか、今のKにはできない。  ないない尽くしか、とため息をつく頃には空も暗く、Kは身支度を整えはじめる。鍵の子は元気にしているだろうか。少しぐらいなら話し相手になってやるのも悪くないだろう。  赤い雨は降り続く。  七  眠る人の髪を梳きながら窓辺でぼんやりとしていた。いつしかうとうとと舟を漕いでいたが、赤錆びた臭いを嗅ぎ取り見守りは目を醒ました。鼻先に集中してみる程に臭いは強くなる。まだ夜は明けない。見守りは窓を閉じ、足を踏み鳴らして浴室へ駆け込み、水も温まらないうちにシャワーを体に叩きつけた。  見守りが一人立ちする以前の話だ。  よく晴れた日だったことは覚えている。見守りが先代に拾われてから、年月は数えて二桁になったころだった。季節は覚えていないが、おそらく初秋の頃であったように見守りは思う。いつも通り観察録を片手に通りを行くと、吹き抜けた風が頬に涼しく心地良かった。夏の気だるく湿った空気ではない。乾いた風だった。  夕暮れも近い頃になると、図書館の正面玄関は影を背負っていつも以上に大きく見えるようになる。その重たい扉を、全身を使って押し開いていくと、間もなくホールカウンターに着き、そこには鍵人のおじいさんがいるのだ。 「いらっしゃい、甘い黒椿の髪のお嬢さん」 「それ、やめてください。恥ずかしいです」  初めて図書館に来た時に先代が鍵人にそう紹介したのだという。以来、見守りはそう呼ばれていた。 「これ、今日の分です」 「預かるよ――相変わらず見ィちゃんはよく書くね」  鍵人は観察録を開き、全体を眺めると感心した風に言った。彼は先代のことを"見ィちゃん"と呼ぶ。  実際、先代の眠る人に関する記述は、執拗と言ってよい程に詳し過ぎるのだった。十分単位での脈数はもちろん、何時何分に睫毛がどの程度動いたか、さらにその後ろには先代の推察――どのような夢を見ているか――が括弧で記されている。そういった内容の文章が豆粒みたいな文字で綴られ、遠目には紙全体が黒ずんで見えるのだ。先代はこれを毎日続ける。一日も欠かさない。 「Kのところなんて酷いもんさ。大抵、一行か二行かでおしまいだ。せめて頁の半分は埋めろって言っても、『書くことがない』ってさ。一度これを見せてみたいね」 「でもまとめるのも楽でいいんじゃないですか」 「まとめ甲斐がないことの方がよっぽど辛いもんだ」  そういうものなのか、と見守りは思う。 「ところでこの頃は冷えるね。来週辺りからあれを出そうと思うのだがね」  あれとはココアのことである。夏が終わって秋になり、肌寒くなる頃になると鍵人は見守りにココアを出す。見守りが聞くところによると、若い子らと語り合うのが楽しいのだという。 「楽しみにしていますね」  見守りは愛想良く微笑む。  また明日、という鍵人の見送りに手を振り返し、図書館を後にする。  門を出ると、風が来たときよりもぐっと冷たくなっていることに気付いた。果てしなく間延びした影。微かに夜の匂いがする。今日もまた夜がやってくる――ぶるっと身震い一つすると、見守りは帰路につく足を速めた。先代と眠る人のいるあの部屋に帰ろう。また三人で眠ろう。眠っている間は幸福だから。夢の中でなら三人で遊べる。静かな森の小さな小さな家でお菓子を焼いたり色とりどりの木の実を集めたり清水の川で水遊びをしたりできる。そうして遊び尽くして目覚めた朝には先代が、とびっきりの笑顔で「おはよう」と言うのだ。  アパートの段を踏む頃には陽はもう大分暮れかかっていた。瞬く度に世界は暗くなり、やがて真っ暗になってしまう前に見守りはあの温かい部屋に帰らなければならない。扉を開けるのももどかしい程に部屋に飛び込む。すると、空気の質が違うことにまず気付いた。外以上に部屋の中は静かだった。あらゆるものが息を潜めていた。  夕闇に沈む部屋にあってあの窓だけが赤々しく焼け、蝋燭の灯のようにちろちろと揺らめき明滅を繰り返す。そのリズムは誰の呼吸に合わせたものか。後になってから振り返る度に、あんな綺麗な夕焼けはもう二度と見れないかなあ、と見守りは苦笑する。衣擦れの音がする。窓の下で、細長くて柔らかな輪郭が舟を漕ぐようにゆらゆら揺れていた。それが人の体だと気付くのに、少し、時間がかかった。人影は天井を仰ぎ、長い髪が後ろに落ちて糸を引いているように見える。  先代はくぐもった声で呻くと体を折り、眠る人の首筋に吸い付く。眠る人の平たい胸を撫で、控えめな乳首を陶器の指でいじる。自分の胸を眠る人の腹に押し付け円を描く。喘ぐ。先代の手が眠る人の下腹部に伸びる。その一方で眠る人の唇を吸い立てる。耳たぶに歯を立てる。独特の呼び方で眠る人の名前を呼ぶ。(愛しい子、愛しい子……。)先代は体を起こし、眠る人に跨るとその胸に両腕を立て、ゆっくりと腰を下ろし、一番深いところで花が咲くように仰け反る。そして見守りの方に顔を向け、甘い猫撫で声でこう言った。 「おかえりなさい、早かったのね」  影になってよく見えないはずなのに、先代がこちらを向いて微笑んでいるのだろうと確信する。それも虚ろな目で。それから先代は再び体を折り、行為に耽る。  守らなければならない、と思った。  私は、眠る人を、先代から、守らなければならない。なぜなら、先代が見守りにそう教えたから。天使の卵のように愛しいこの子を私たちは身を挺して守らなければならない、と言って見守りの額に口付けたのは、他ならぬ先代自身だった。雪の降る朝に指切りをして約束をしたのだ。自分も眠る人を守ると、あの朝に見守りは誓った。  先代に馬乗りになり首を絞めていると、程なく先代は事切れた。あっけなく事は済んだ。  見守りは先代の白目をむいた瞳に瞼を被せ、だらしなく開いたあごを押し閉じる。眠る人はすやすやと寝息を立てているものの、眉間に皺が寄り、ひどく不安な心地でいることが見て取れた。見守りは眠る人の頭を掻き抱く。耳元で何度も、大丈夫だよ、大丈夫だよ、と囁く。私があなたのことを守るから。  見守りは先代を浴室まで引き摺り運ぶと浴槽に押し込んだ。ただの肉塊になった先代は重かった。タイルにへたり込み、肩で息をする。――これからどうしよう。どうしようもない、どこかに捨てるしかない。でもどうやって。小さくばらばらにして、袋に小分けにするのだ。捨てに行くなら人目につかない時間が良い。夜、そう、真夜中だ。場所は、街のうんと外れ。誰にも見つからないよう祈るしかない。けど、もしも誰かに見つかったら? 分からない。けれど。やるしかない。  見守りは一つの想像をする。  真っ暗な夜道を見守りは行く。幾重にも着込んだ服にも風は容赦なく進入し、冷気が身を切り刻む。手には麻袋。中身は先代のばらばらになった体の一部。果てのない道を、真っ暗な道を見守りは行く。ただ一人で。帰ってももう、見守りを抱きしめてくれる温かい腕はない。もう二度と、ない。ないのだ。  はらはらと滴る涙に気付く。見守りは浴室から逃げるように飛び出すと眠る人の脇に潜り込む。布団を被り、眠る人の細い腕にすがりつき、そして思いっきり息を吸う、先代の甘い髪の臭いがした。見守りは息を止めたままそこから這い出し、部屋の隅に突っ伏した。胃の中のものを全て吐き出す。何も出なくなるまで出す。出し尽くす。  やがて見守りは壁に手をつき立ち上がると、身をよろめかせながら窓辺に座り、窓を開けた。冷たく味のしない空気で肺を満たすといくらか気分も落ち着いてくる。  外はすっかり暗くなり月明かりが射す頃合いだった。視線を眠る人に落とす。月光で露になった平たい胸が小さく上下しているのがわかる。鎖骨の辺りには、虫に喰われたような赤い痕があった。二の腕には赤い歯型。見守りは眠る人の首まで毛布を被せると、乱れた髪を手櫛で梳いてやた。何も知らないこの幸福な少年は、今は何を思いどんな夢を見ていることだろう。眠る人は穢れを知らない。虫に喰われたような赤い痕も、二の腕の赤い歯型も、何ものも眠る人を穢すことができない。見掛けの年は近しい二人であるが、立っている場所は今や全く違うものであった。小さな神様の柔らかい頬を撫でる度に見守りは眠る人に対する想いを確かなものにし、いよいよ覚悟が定まってくる。この先どんなことがあろうと、私が彼の幸福な夢を守らなければならない。  思えばまだ日が沈んでから大した時間も経っていないのだ。  長い夜はこれから始まる。見守りは思う。  夜が明ける頃には、私はもう今までのように無邪気ではいられないだろうな、と。  先代の首に手をかけている時、無意識のうちに見守りは「なんで、なんでこんなこと」と口走っていた。泣いていたかは覚えていない。そんな見守りに対して先代は薄らいでいく意識の中、掠れた声でこう言ったのである。  いつか、いつか、あなたにも分かる日が来るのよ……。  そして最後に微笑みながら先代は事切れた。  このやり取りを思い出すのは、年月流れ街に赤い雨が降った朝のことである。