〇  砂漠の高台に一本の電波塔があった。かつては何かしらの目的があって建てられたものであるが、今は役目を終えてつれづれに電波を受信したり送信したりしている。どこかの軍隊が本国に連絡するために建てたものかもしれないし、どこかの宗教団体が宇宙と交信するために建てたものかもしれないし、あるいはかつてこの辺りには立派な街がありその名残だったのかもしれない。いずれにせよ、今や電波塔の周囲一帯は黄色い砂漠である。電波塔は砂嵐の中、依然として機能している。扱う者がいないだけで。  その砂漠の電波塔に幼い子が棄てられたのは十数年前のことだった。夜闇に紛れて商隊が棄てていったのだ。どうせ棄てるならば砂漠の真ん中にでも放り出せばよかったものを、わざわざ電波塔を選んだのは商隊がその近くで一夜を明かしたからであり、また、幼い子を殺すことに対する抵抗の所産でもあった。殺すために棄てるのではない、我々が砂漠を乗り切るためのやむを得ない犠牲なのである、ここならばまだ生き残れる可能性が残っているやも知れぬ。何と言おうが所詮詭弁でしかないのだが、結果的には子は餓死することなく生き延びることになる。  商隊が発った後、子は飢えに泣いたがそれも時間が一回りすると食料を探すようになっていた。食料は電波塔の真下の管理室にあった。管理室には地下へ至る階段があり、そこを下っていくと非常用備蓄の食料品が山積みにされていた。天井の高いその空間はシェルターを思わせる。それを踏まえるならばやはりこの電波塔は軍用なのかと考えられるがしかし実際のことは誰にもわからない。幼い子にも関係ない。あるのは向こう食べきれないほどの食料と水、それだけだ。  かくして子は育つ。管理室で寝泊りし、好奇心の赴くままに周囲を散策し、腹が減れば山積みの食料に手をつけ、昼はぼろ毛布で日を遮り夜は温度調整の利いたシェルターで眠る。四季もない砂漠が彼の家になる。電波塔が親代わりだった。自分が商隊に生まれたことも彼は忘れた。彼の記憶の始点は管理室のシェルターである。  彼はこの世界には言葉という空気の振動を用いた意思の伝達手法があることも知らなかったが代わりに電波を聞く術を覚えるようになる。というのも、日中日夜問わず、頭の隅がちりちりと痛むような痒くなるような感覚があったためだ。砂嵐がびょおおう、びょおおうと騒ぐのとは明らかに異なる感覚である。普通の人間が音として聞いた言葉を脳内で再生するように、電波は様々な映像や概念を彼の脳内に叩きつけるのだ。その感覚は、彼に様々なことを教えた。例えば見たこともない青い景色、それはseaと言うらしい。あるいは自分と同じ姿形をしているらしい者たちの抗争の歴史、不可思議なリズム(楽しくなるのだ)、数学や理科といった学問、自由や共産主義、宇宙開拓に八百万の神と呼ばれる抽象概念。それらを伝えたのは彼の母たる電波塔である。世界中から寄せられる電波は彼女を経由してまたどこかへと飛んでいく。差出人不詳宛先不詳の手紙を彼は垣間見て育つのだ。  彼はしばしば電波塔に登った。塔の内部は外と比べ物にならないほど静かで、コンクリートはひんやりと冷たく、何より明滅する明かりが空気をより淀んだものにしていた。上のほうになればなるほど黄色い砂の代わりに灰色の埃が堆積するようになる。彼はやがて電波塔の管制室に辿り着くのであるが、そこは今まで歩いてきた廊下とはうってかわって一面ガラス張りだった。遮光ガラスの先は見渡す限り砂漠続きで、電波が語る色鮮やかな世界の存在など微塵も感じさせない。一体この黄色い景色のどこに青い海やら緑の野があるというのか。彼は銀色のパネルを撫でながら考える。それでも電波は毎日絶えることなく、砂漠の向こうの出来事を雄弁に語る。正確には、誰かが誰かに何かを語るために飛ばした電波を彼が盗み聞きしているに過ぎないのであるが。いずれにせよ一度得た知識はもはや彼自身のものである。そこから様々な疑問が出ても彼に質問することはできず、電波は一方的に語るのみだった。しかし、彼は砂漠の彼方の発信者に問いかけることがまったくできないわけではなかった。例えば銀色のパネルから生える黒い棒はまさしくマイクだったし、明滅する赤いランプは電波塔が生きている証拠である。彼は語りかけようと思えばマイクを通じて電波を発することができたのだ。しかし彼は黒い棒がマイクだとは知らなかったし、砂漠の彼方の人間が電波を発するように自分もまた電波を発することができるなど考えもしなかった。(そもそも喉を使って発する言葉さえ知らない。)その意味で彼は徹底的に受信者だった。しかし疑問は持ち、思索を巡らせる。そこが母とは決定的に違う点であることを自覚していた。外の世界を知るにつれて興味は高まりやがて憧れとなる。  そして彼が電波塔に棄てられてから数えて十数年後、彼はとうとう電波塔を離れる決意をする。体の大きさがようやく管理室に置かれた衣服と合致するようになったのがきっかけだった。かつて電波は太陽の昇る方角と沈む方角を彼に教えた。それを頼りに彼は一路東を目指す。東は旅立つに良い方角だ。一日の始まりに目指すべき標がある。  電波は世界の広さを語った。歴史の深さを語った。宇宙の果てしなさを語った。人間の罪深さや愛おしさを語った。全ては電波が彼の脳に叩きつけた幻である。彼にとっての現実は果てしない砂漠と電波塔だけである。遠い昔に彼を抱いた実の母の腕も今や幻想。電波の語るものが実在すれば良し、存在しなければそれまでのこと。もはや夢見て生きるも夢に生きるも変わらない。もしも電波の語ることが本当ならば、いつか青い海や緑の野に辿り着くだろう。嘘ならば世界の果てまで黄色い砂漠が続くだけだろう。  彼は歩みだしてちょうど百歩目で振り返る。電波塔の先端は渦巻く砂嵐に霞んでいた。  一  カイがお前と呼んで愛していたのは砂鯨だった。砂鯨とは砂漠に住む生物で、大きさは砂鯨の影に大の大人が五人は納まるほどである。象牙色の艶やかな肌。地表からは拳一個分ほど浮いて砂漠を航行する生物である。その砂鯨の背に乗りカイは旅をする。人に聞かれる度に、西の国を目指して、とか、北の海まで、とか、南に親戚がいる、と適当に答えてきたものだがそれらは所詮その場しのぎであって、本当のところはカイ自身にもわからないという具合だった。しかし彷徨とは違う。目的を探すための旅なのだとカイは考えていた。  カイは砂鯨の背に乗り砂漠を行く。日除けの布をしっかりかぶり、砂鯨の頭のあたりで頬杖をついてうつぶせながら連綿と続く地平線を眺めていた。時折、お前、お前、と言い砂鯨の頭を撫でる。砂鯨は嬉しそうにつぶらな瞳を閉じてカイに答える。砂鯨はカイの唯一無二の親友だった。  旅に出たのはいつだったか。数えてもう一年前にはなるだろうか。故郷はあったが既に遠く、手紙をしたためる機会もだんだんと減っていた。いつかは帰ることになるだろう。しかし今はまだそのときではない。砂鯨と共にある限り、旅は続くのだ。  お前の背に乗ってどこまでも行けたらいいねえ。  そうしてごろりと仰向くと、曇りない青空が視界いっぱいに広がるのだった。どこまで行けるだろうか。行けるところまで。そこから先は、それから考えよう。そこで果てることも、さもありなん。人はそれを浅薄と嘲るだろうが、この広い神様の手のひら、どこで果てても一緒だろう。人の間で生きて死ぬことに疑問を持ったその日から、もうそこでは生きていかれなかった。  もしも目的があるとしたら、手のひらから飛び降りることなのやもしれない。それがつまりどういうことなのか。いつかわかるかもしれないし、いつまでもわからないかもしれない。けれどこれがわからないうちは、カイは旅をやめることができないのだった。今はおぼろげに予感しているに過ぎないが。  しかしこの途方もない旅は思いの外早く幕引かれることになる。  ある晩、カイが眠っている隙に砂鯨が毒虫に刺された。カイが異変に気付いたのは翌日のことで、いつも通りに砂漠を航行していると突然砂鯨の肌が熱くなり、脂汗を滲ませ、間もなく地表に崩れ落ちた。尾の付け根に出来た紫の傷は明滅するランプのように血流に合わせて鼓動し、カイが水を浴びせ僅かな布で日を遮る努力も虚しく、正午を回る頃にとうとう砂鯨は息絶えた。その間際、砂鯨は、クゥ、と甲高く鳴いた。  死んだ砂鯨は直ちに葬られなければならない。これが天罰と言うならばどうか砂鯨の魂だけは、とカイは非常用の装置を作動させ緊急の電波を飛ばした。これは砂鯨を駆って旅する者が緊急時に使う仕組みである。電波を飛ばすと最寄の街の葬送団が受信し、方角や距離を探知し、ただちにやってくる。装置を作動させた後、カイは改めて砂鯨を見上げた。砂に横たわる体はやはり大きく、カイの体を影で覆うには十分すぎるほどだった。しかしそれでもいくらか小さく見えるのは、どこか遠くへ行ってしまったように見えるからだろう。手で触れてみると、彼を死に至らしめた毒の熱が、まだ生々しく残っていた。ねっとりとした脂汗が手にべっとりとついた。お前、とカイが呼んでも砂鯨は黙して答えなかった。  日が傾いた頃、西の夕日にぽっかりと浮かんだ黒い点はたちまち一艘の砂舟になった。豊かに張った帆は麻で編まれ、ざりざりと砂面を掻いてカイの方へやってくる。葬送団だ。カイは立ち上がって手を振る。  葬送団の話は一度だけ聞いたことがある。いつかの街で出会った男が話してくれた。半年前に砂鯨を亡くした男は、砂鯨が死ぬと葬送団を呼んだ。やって来た葬送団は実に機械的に砂鯨を解体すると、彼を乗せて街まで運んでいったという。砂鯨の死体が手間賃代わりだったのさ、と男は苦笑した。彼らは解体した砂鯨をどうするのか、とカイが尋ねると、男は、さあ、と首を傾げた。せいぜいお偉いさんの剥製にでもなるんだろうさ。そう言って彼は杯を仰ぎ、カイはそれ以上問うことができなかったのを覚えている。いつか来る別れの時を意識したのはこのときが初めてだった。もしも砂鯨が死ぬときがきたら自分で葬ってやろうと、そう強く誓ったはずだった。  葬送団を乗せた砂舟は帆を畳み次第に減速すると、カイの目の前でぴたりと止まった。カイの背丈よりも少し高いくらいのところに砂舟の縁はあった。 「ああ、立派な砂鯨だねえ」  カイが見上げていると、一人の女性が縁から身を乗り出し手でひさしを作って砂鯨を眺めた。 「こんな大きいの、そうそういないよ」 「坊主、いい砂鯨を持ったな」  ぬっと現れた禿頭がカイを見下ろして言う。 「昼頃に緊急電波を飛ばしたのは坊主で間違いないな」  カイは頷く。その間にも砂舟の裏では手早く作業が行なわれ、錨が下ろされたり縁から地表へ板を渡して橋ができたりしていた。葬送団員は舟から手際よく道具を出す。木箱からはのこぎりの刃がのぞいて見えた。あれで砂鯨の肉を切り裂くのかと思うと、カイは涙を滲ませずにはいられなかった。  夜明けまでには帰るぞぅ。  舟の裏から声が聞こえる。 「悪いな、デリカシーのない奴らで」  橋を降りた禿頭はカイの隣に立ち、舟を見上げた。それからカイの方に向き直る。懐から藁色の紙を取り出した。契約書である。 「傷心のところ申し訳ないがさっさと事務作業だけは済ませちまおうかね。さて、名前は?」 「……カイ」 「出身地は」 「クロン」 「へえ、そりゃ随分遠いところから。生年月日」 「三〇一四年九月一八日、十五歳」 「ん、右は葬送の報酬としてガド幻楽団に砂漠航行具、つまり砂鯨だな、を引き渡すものとする」 「幻楽団? 葬送団じゃないのか」 「葬送代行もやっとる」 「へえ」 「で、どうするんだね。ハイって言ってくれなきゃ俺たちゃ今すぐ荷物まとめて帰るぜ」 「ああ……」 「じゃあここにサインしておくれ」  代表ガド・グレイと印刷された下が空欄となっている。カイはそこにサインをした。これでもう引き返せない。のこぎりの刃で親友の肉を切り裂く契約に、サインをしてしまった――ガドはカイのサインを確認すると、うんと頷き契約書を丸めて懐にしまった。それから舟の方に向かって「全員集合」と号令をかける。  間もなく全員が集まった。数は十人ほどだった。先ほどの女性もその中にいた。 「さて」  ガドは改まった口調で続ける。 「この度は不幸な事故でカイさんの大切な友人が亡くなってしまったことに我々は心底御悔やみ申し上げ、その心痛お察し致します。今宵は友人殿にとって安らかな一夜になるよう、我々も誠意を尽くす故、カイさんもどうぞ共にお祈りくださるようお願いいたします」  彼らは一様に頭を下げる。先ほどまでの粗野な雰囲気は水が引いたように消え失せ、厳かな雰囲気さえ感じさせた。  作業はガドが指揮して進めた。その様子をカイは砂舟から見下ろしている。頭から被っている毛布は幻楽団のものだ。作業は黙々と行なわれ、ガドの声だけが夜の砂漠に響いていた。風も雲もない晩だった。満月が中空に浮かんでいる。 「静かな夜だね」  そう言って女性はカイに湯気の立つ茶を渡した。名前はリーンと言うのだという。リーンは砂舟の縁に肘を突き、カイと並んで作業の様子を見下ろした。 「これなら彼の魂もまっすぐお空のてっぺんまで行けるだろうねえ」 「お空のてっぺん?」 「天国、極楽浄土、あったらいいなあって思う場所」 「そんなものあるわけが」 「あってもなくても、とにかくあるものなの」 「……矛盾してる」 「矛盾してるねえ」  リーンは苦笑した。 「作業、慣れてるね」 「まあそりゃあね」  砂鯨の解体作業は流れる水のように淀みなく進められていた。まず血を全て瓶に移すと皮を剥ぎ、露になった肉をのこぎりで裂く。毒が沁みた辺りは特に慎重に進められている。砂鯨の大きさのせいもあるかもしれないが、その様子は生物を解体しているというよりは建築物を解体しているようにさえ見えた。臓物はバケツに分けられた。彼の肝が真っ白だったことにカイは驚いた。(あの白い玉みたいなものはなに?)(あれは睾丸ね。彼は男の子だったのねえ) 「解体したものはどうするの」  幾分覚めた茶を啜りながらカイは尋ねた。 「楽器にするの。全部が全部そうなるわけじゃないけど、大体そうなるわ」 「楽器にしてどうするのさ」 「演奏するのよ」 「なんで」 「楽器だから。まさか釘を打つのには使わないでしょう」  そういうことじゃなくて。そう言おうとしてカイは口を噤んだ。  頭がぼんやりする。いつからかと聞かれれば、砂鯨が砂に横たわって苦しんでいるときからだ。あの時はまだ正午前で、今が日付の変わる前だから、砂鯨が死んでからまだ半日も経っていない計算になる。あの時間と今が地続きなのが不思議だった。断絶の正体が何なのか思い返してみると、それは緊急装置を作動させてから幻楽団が来るまでの時間だ。砂鯨の日陰で膝を抱えて座っていた。どうして毒虫に刺されたことに気付かなかったのだろう、あるいは、どうして毒虫に刺されたことを砂鯨は伝えてくれなかったのだろう。神様に背こうとしたことの天罰なのだろうか。だったら神様は砂鯨じゃなくて自分を選ぶべきだった。残酷すぎる。どうしても手のひらから逃がしたくないのか、いいや、これはただの不幸な事故だ。運命? まさかそんな感傷的なものなんて。自分はなんて無力なことか。  あの時、カイが自分で葬送せずに緊急装置を押したのは、おそらく自分の無力さ加減を察知したからだろう。この巨体を満足に送る術などとてもなかった。何より自分の代わりに殺された砂鯨を、どうして罪深きカイが葬れるものか。そんな資格なんかあるわけがない。 「みんなね、そうやって自分を責めるのよ」  カイが隣を見ると、リーンは真っ直ぐに砂鯨を見つめていた。引き締まった顎のラインを月光がなぞっている。 「自分のせいで、自分があれをしていれば、自分があれをしなければ。そういうのを見るたびに私は腹が立つの。キミはいつから彼の生死を支配できるほど偉大なヒトになったんだい、って。もちろん私だって馬鹿じゃないから、自分を責める気持ちだってよくわかるつもり。けどね、本当に考えなきゃいけないのは、彼が死ぬ間際、死ぬ瞬間に何を思っていたのかってことだと私は思う。毒で苦しかった? ご主人様を心配させたくない? この山場を乗り切ったら何をしよう? また一緒に旅できるかなあ? 満足して死のうが不満タラタラで死のうが、残された人間が彼が最後まで思っていたものを受け止めてあげなきゃどの道彼は救われないよ。それとも何かね、キミはこれからずっと自分のせいで自分のせいでって思い続けて、彼のことなんか思い出しもしないで、それでいつか綺麗さっぱり忘れてケロリとするの?」  そう言ってリーンはカイを見た。とても哀しそうな目で。 「そんなことあるわけが」 「じゃあ、しっかりと前を見て。彼がどうなるか、ちゃんと見届けて。そして彼の魂が、カイの思う世界で一番幸せな場所に行けるよう願って。神様なんかに頼らなくていいから、せめて迷いなくまっすぐにお空のてっぺんに行けるよう祈って。わかるかなあ、カイ自身のためにも」  わからない。それが正しいことなのかどうかは、時間が経ってからでないとわからない。 「ま、ゆっくり感じられればいいと思うよ。けど、私たちのことは信じてね。私たちはカイと彼を裏切らない」  そしてリーンはにっこりと笑い、団長の受け売りだけどね、と付け加えた。 「あ、見て」  リーンは砂鯨の方を指差した。見てみれば、砂鯨の手前で団員の一人が生白い骨を組んでいる。 「あれはティンパニーになるんだよ。骨で骨格を作って、そこに皮を張るの。ばちはまた別の骨を使うのかな」  それからリーンは矢継ぎ早にあちこちを指差す。 「あれはハープだね。砂鯨の髭を弦にしてる」 「あれはフルート。喉笛をちょっといじるの」 「かれはカスタネット。歯を打ち鳴らすと、思ったよりしっかりした音が出るのよ」  いたるところで楽器作りが始まっていた。作業も大よそ終盤に差し掛かったということだろう。砂鯨の形跡はもうほとんどない。砂地にできた緩やかな窪みと元々どこにあったのかさえ見当のつかない骨の断片が転がっているだけだった。血は瓶に、肉は麻に包まれ贓物も仕分けられ、骨も皆綺麗に磨かれた。 「カップ、ちょうだい。しまってくるね」  カイがカップを手渡すとリーンは船室に潜っていった。  間もなく月はてっぺんに至る。凹凸の影さえ鮮やかな見事な満月だ。これを最後に見た一月前は、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。砂鯨だって思いもしなかったことだろう。未だに夢を見ているような心地がする。全ては夢で、目が醒めたら砂鯨はぴんぴんしていて。もしかしたら旅に出る前に戻ることだってあるかもしれない。もしそうだったらどんなにいいことだろう。とあるハッピーエンディング。悪くない。  けれどそんな願望は得てして儚くも無視されるものである。カイがふっと我に返ったのはガドに呼ばれたからだった。 「待たせたな、準備できたぞ」  気がつけば砂鯨がいた窪みに楽器が並べられ、一つにつき一人、幻楽団員がついている。リーンはそのうちの一人と何やら話し込んでいた。その出で立ちはさっきと変わっていささか露出が多いように思われる。 「最後の別れだ。付き合え」  ガドの口ぶりは横柄だが、それは親しみからくるものであるのがカイにもわかる気がした。他の幻楽団員に利くような口振りでカイにも接することで、カイは幻楽団の一員になれたような気がするのだ。錯覚でも構わない。一年前に捨ててきた家族の温もりが今は優しい。  カイが橋を降りると、ガドは窪地の正面にカイを導き座らせた。そしてガドは身を引き、代わりにリーンが表に立つ。 「この楽器は特別な楽器。もしもカイが彼の良い友人だったなら、きっと良い音が出る。逆もまた然り。まあ、こればっかりはやってみないとわからないんだけどね」  そう言ってリーンは両手を宙に伸ばした。今、まさに月は天頂に至った。リーンは目を閉じる。呪文のような言葉を口早に呟く。真夜中の太陽が、地表を照らす。するとどうしたことだろう。暗色めいた黄色い砂漠に青白い光の斑が一つ、また一つと浮かぶ。砂地の表面には風が刻んだ畝が幾重にも連なっており、それと合わさることで斑は譜になる。ぽつ、ぽつ、と斑が浮かぶ。青白い光の斑。カイの置いた手の下にも斑が浮かび、手をどかしてみるとそれはコップに張り詰めた水のようにゆらゆらと揺らめいているのがわかる。触れてはならない気がした。  間もなく辺りは一面が青白い光の斑で覆われる。空に浮かぶ星々を地表に投影してできた、砂漠一面に広がる巨大な楽譜だった。 「今夜だけのスコアだよ。カイは神様に愛されてるね。いつもはこんな綺麗になったりしないんだから。良い夜になるよ、絶対」  光を受けたリーンの顔はどこか眠たそうに見えた。微笑んでいる様子も、寝起きに夢の名残に身を浸しているような、そんな風だった。  タン、タン、とどこか遠くから聞こえてくるような、ささやかなティンパニーの音。  リーンはそっと息を吸い込み、最初の一声を出した。後ろから被さるようにハープが旋律をなぞる。フルートの裏旋律。カスタネットは鈴の音よろしく音全体に寄り添っていた。  アリアだった。静かで陽気な鎮魂歌だった。  思いがけず私は途中で舞台から降りることになりましたが、貴方はどうぞ最後まで貴方の思うところを通してください。この広い神様の手のひら、御庭と思えばこそ淋しくなんかないでしょう。  そう歌ったのはリーンか砂鯨か。  東の空が白じみだす頃、空が明るくなるのに反比例して青白い光の斑は小さく弱弱しくなっていった。星の光が弱まったからだ。  そして最後の一片がすうっと薄らいで消え、そしてアリアは止んだ。  リーンは楽器の最後の音が鳴り止むのを確かめてからうっすらと目を開いた。  カイは、丸くなって眠っていた。その体には毛布がかけられている。ガドが被せたのだろう。 「お疲れさん」  ガドはあくび交じりに手を挙げた。 「あの子はいつから寝てたの?」 「さあ、いつだったかな。一時間前にはもうあの通りさ」 「ふうん――カイはちゃんと葬送できたかな」 「たたき起こして聞いてみるかね」 「いいよ、寝かせておけば」 「何だ、機嫌悪いじゃないか」 「いつものことでしょ」  やれやれ、という具合でガドは肩をすくめた。それから手で楽器や道具を砂舟に運び込むよう指示する。団員は皆、黙々とそれぞれの作業に励む。  やがてそこにはカイとリーンだけが残される。リーンはカイの前に腰を下ろし、頭に手をやった。 「はあ、きっついわ」  空いた手で目尻を押さえた。今日は特にきつかった。カイと砂鯨が互いを思い合う関係だっただけに余計に。恨み合っていてくれれば茶番と白けて済んだのに。  アリアを歌うときは、死んだものの心を読むために死ぬ間際の無念さや狂おしいほどの愛情など、感情がそのまま胸に流れ込む。自分の感情でないものが自分の中に溢れ、行き場を失うのだ。そのままそっと流せたらいいのだろう。しかしリーンはそこまで器用ではない。今はまだ等身大で感情に共感してしまう。それはとても愛しくて苦しいものだ。 「あんたも砂鯨も馬鹿者だわ。もう本当に」  リーンはしばらくそのまま口の中でありったけの罵詈雑言を吐き散らしていた。おそらくこの二人は、恨み言を言うことが悪いことと信じて疑わなかったに違いない。だから子供なのだ。 「毒が苦しいって言われないことがどれだけ辛いことか」 「そこまで意固地になってまで守る約束なんて」  カイは安らかな寝息を立てている。それが余計に癪だった。頭を引っぱたいてやろうか。ここまで馬鹿だなんて思いもしなかった。本当にこの子は。 「リーン、それが最後の荷物なんだがな」  それとはすなわちカイを指す。 「ん」  と、リーンは顔を上げずにガドの脇を抜けると、足音荒く砂舟へ乗り込んでいった。その後ろを、カイを担いだガドが負う。 「忘れ物はないな、よし、出発だ」  ず、ずず、と帆は砂嵐を浴びて少しずつ進み、やがて滑らかに滑り出す。カイは舟の振動で目が醒める。気付いたときには、砂鯨の窪地は遠のいていた。カイは身を乗り出し窪地を見つめる。さようならは違う。何と言ったら良いのだろう。わからぬまま窪地は地平線に沈んで消えた。 「起こしたかね」 「……いつの間に寝てたんだろう」 「リーンのアリアは退屈だったろう」 「いや」  アリアを聴いている最中はもっぱら昔のことを思い出していた気がする。初めて会ったときのこと、旅に出るに至った経緯、旅の途中で起こった様々な出来事、つい最近語り合った話。順序立ってはいない。ただ漠然としていたような気がした。 「――そうだ、耳骨はない?」 「欲しいのか」 「……」 「契約報酬を言ってみろ」 (ん、右は葬送の報酬としてガド幻楽団に砂漠航行具、つまり砂鯨だな、を引き渡すものとする) 「オッサン、子供をいじめて楽しいか」  ガドが振り返ると、リーンが腰に手を当て立っていた。もう片方の手にあるのは巻貝みたいな白い骨。耳骨である。 「ああ、楽しいね。ちょっと生意気だとよりそそる」 「ヘンタイ」  リーンはカイの前でしゃがみこむと、カイの手を取り耳骨を乗せた。 「報酬は」 「中途半端に恨まれる方が怖いのよ」  嘘だ、とカイは思った。 「ところで居眠りするくらい、退屈だった?」  にっと笑うとリーンはカイの頭を支えにして立ち上がる。そして、ガドの耳を引っ張り船室へ引っ込んでいった。  砂舟はすっかり風に乗り、砂鯨よりも速い速度で一路東へ向かっていく。本当だったら砂鯨と行くはずだった街へ。カイは息をつき、縁に背もたれる。耳骨を耳に当てる。耳骨に空いた穴を吹き抜ける風がノイズとなって耳に障るが、しかしよくよく耳を澄ませてみると微かに聞こえる歌がある。昨夜のアリア。静かで陽気な歌だ。あの時砂鯨が言った言葉は覚えている――約束を守ってください――。砂鯨と交わした約束は数知れないが、その中で一番大事なものといえば一つしかない。旅立つときに誓い合った約束だ。世界の外を見るまで帰らない。実現は、きっとできない。世界はどこまで行っても神様の手のひら。人の間で生まれた者は人の間で死に行くしかない。それがこの上なく幸せであることは、砂鯨自身が一番良く知ることだ。しかしそれでも、たとえ無邪気に交わした約束であってもそれが約束である限り、過去に誠実であろうとするならば守らなければならないのである。実に、視野狭窄な。しかしそれでも。  カイは自問する。一体自分はどこまで行けるだろうか。行けるところまで。そこから先は、それから考えよう。そこで果てることも、さもありなん。人はそれを浅薄と嘲るだろうが、この広い神様の手のひら、どこで果てても一緒だろう。  砂鯨の耳骨に耳を当てれば昨夜のアリアが蘇る。  二  電波を聞いた。それは一方角から発せられた緊急警報で、光の矢のように彼の頭に突き刺さった。  たすけて。たすけて。たすけて。  金切り声に似ていた。決して彼に向けられたものではないとわかっていたが、鬼気迫るそれを無視するには声が悲痛すぎる。  食料の残りはおよそ半分というところだった。電波塔を発って以来、行けども行けども砂漠で尽きる気配はない。それでも道すがら微かな電波が空を飛び交い、時折外の世界を歌う。じっと耳を澄ませないと聞き取れないほど弱弱しい電波だった。電波塔にいた頃、特に日中は四六時中電波が響いていたがために、彼は世界がこんなにも静かだったことに驚いている。一日中砂漠と砂嵐、そして微弱な電波。立ち止まっても振り返り仰いでも同じ景色が続く。そんな折だったから、たすけて、の電波は彼の頭に良く響いたのだった。  さてどうしようか。このまま漠然と東を目指すよりは、声の主を辿る方が何かに出会える可能性は高いだろう。それが本物であれ偽者であれ。  彼が知る限りこの世の造形といえば、砂漠と電波塔と鏡に映った自分自身のみである。イメージでこそ知ってはいるが、実物は一切見たことがないのだ。  彼は決意する。無論、正確な方向はわからない。しかしそれでも声のした方へ、した方へと靡いていくのだ。  最初に見つけたのは砂地に引かれた一本の線。巨人が指で落書きしたような、窪んだ線だった。それが砂舟の跡だと彼は知らない。しかし明らかに自然の造形ではないそれは、彼に外の世界の存在を予感させるには十分だった。外の世界へ続く線は彼に二つの道を示した。右へ行くか、左へ行くか。どちらも地平線の彼方まで続いている。しかしどちらを辿っても、きっと外の世界に通じているだろう。  彼は靴でその場に大きな丸を描いた。なぜそうしたのかと問われれば、はっきりとした答えを返すことはできない。しかし、そうしなければならない気がした。外の世界は彼にとって故郷ではなく異郷である。故郷はあの古錆びた電波塔だ。吹き荒む砂嵐はあっという間に印を消して、電波塔の存在を隠してしまうだろう。そうすれば彼はきっと、もう二度と帰れなくなる。電波塔を発った時点でそうではあったが、印をつけるのは決意だ。  一方を選んで辿り着いたのは小さな窪地だった。周辺にはほとんど消えかけた足跡がある。窪地は彼が大の字に寝転がっても余るくらいの大きさだった。彼は窪地の中心に身を横たえ、不意に愉快になって声を上げて笑う。  ああこれが、笑う、だ。  間もなく日が沈む。今日はここで夜を明かすことになるだろう。  明日はどこへ行こう? もう一方の道を辿っていこう。  電波が微かに歌う。遠い異国の歌。