一  鳥が一羽飛んでいった。大きさは鳩ほどで、色はわからない。黄色を眩しくしたような色だった。一番近い色は雲であるが鳥の色と比べてしまうと、雲さえ薄汚れて見える。十五時のこと。他に特筆すべき事柄はない。  このように筆を括り、Kは立ち上がる。観察録は丸めて筒に入れ、懐にしまう。忘れ物はないか辺りを確かめ、よし、と息をつくと目の前はもう夕焼け空であった。西側が茜色であるのに比べて、天頂から東側へ視線を流すとだんだん紫紺へ変わっていくのがわかる。その中でも天頂の藤色がKの好きな色であった。  空見の丘を冷たい風が吹く。この辺りでは、日が暮れてからも外を出歩くのは好ましくない。Kは足早に街へ向けて歩き出した。しかし家に帰る前に、図書館へ行かねばならない。観察録を提出するためだ。観察録はその日のうちに提出されなければならない。それが昔からの決まりだった。  空見の丘のふもとはもう街である。街の周囲には壁が巡り、空見の丘もその中にある。街には中央広場があり、そこから道や路地へと続いていく。  図書館はその中央広場の一面にあった。図書館の開館時間は十七時までであるが、日が暮れてから訪れるKのために通用口が開けられているのだ。Kはその通用口をくぐる。薄暗い廊下を抜けると、ホールに続いており、古木のカウンターでは鍵の子が頬杖を突いてKを待っていた。 「おつかれさま」 「これが今日の分――めずらしく、鳥が飛んでるのを見た」 「へえ、鳥ぐらい飛ぶだろう。鳥なんだから」 「鳥自体、見たのは一ヶ月ぶりくらいだったし、あと、見たこともない種類だったんだよ」 「まあそういうこともあるだろうさ。毎日同じ空を見ているんだったら、そういう"大事件"でもあった方が飽きなくていいだろう」  けらけらと笑いながら鍵の子は奥へ消えていく。重石で観察録を伸ばし、一月分をまとめて製本するのだ。その奥から鍵の子が声を張り上げる。 「鳥類図鑑ならたくさんあるぜ。『鳥類大全』、『図説鳥図鑑』、『こどものためのとりずかん』、『新種珍種鳥図鑑』、『鳥類の栄光』……」  つらつらと図鑑名を挙げる鍵の子を捨て置いてKはその場を後にする。  街の人間にはそれぞれ仕事がある。Kは空を見る仕事、鍵の子は図書館の運営といった具合である。全ての者に等しく職は与えられ、また基本的には職が重複することはないし、現職を捨て新しい職を探すことも、職を交換することさえも許されない。それが決まりだからだ。  職は生まれついた時から既に定められている。しかし誰かが、神託のように告げるのではない。生まれながらにして己の使命を自覚しているのだ。そうして定められた職に過不足はない。全ては街の意思である。  だが、生まれた子の職が既存の職と重複することがある。それはつまり、職の交代を意味する。現職の者は後継ぎとなる子を引き取り、仕事を教え育てる。そうして時期がくると職の交代が行なわれ、前任者は去っていく。その行く末は誰も知らない。しかし、職を失った人間というものは街にとって不要な存在である、ということを考えてみれば、その行く末は想像に難くないものである。全ては街の意思であるのだから。街の意思の前では、誰かを悼む優しさなど何の意味も持たない。  Kも鍵の子も、前任者から仕事を引き継いだ過去を持つ。だがそれは哀しいことでも何でもない。  Kの前任者にあたる者は、中年の男だった。Kは生まれると男に引き取られ、育てられた。いつかこの男を自分が追い出すことを知っていたが、幼いKはそれがどういうことなのかよく分からなかった。  Kは男の下でしっかりと、空見の仕事を教わる。仕事の意味に始まり、観察録の書式、雲の読み方、雨の場合の対処法、そして一人で生きる術、いつか来る世代交代のこと。  全てを教わった晩、男は、明日俺はここを出ていく、と宣言した。Kはどこへ行くのか、とも、まだ教わることがある、とも言わず、ただわかった、と言った。十四年という歳月はKを青年に変え、男を老人に変えた。Kはすっかり髪の薄くなった後頭部を見ながら眠りにつく。  目が醒めると男はいなくなっていた。初めから男など存在しなかったのではないかと思う程に、何の痕跡も残さず。  鳥が二羽、飛んでいった。先日見かけた日からそれほど間を置かずに起こったことだ。種類はおそらく先日と同種のものであろう。相変わらず、黄色を目一杯薄めたような色で、何と呼ぶのかわからない。鳥は西の方へ飛んでいった。十一時頃のこと。  Kが筆を奥と鳥はもうほとんど点になっていた。 「こんにちは」  と声を掛けられそちらを向くと、Kとさほど年の変わらない風に見える男がこちらへやって来る。歩きながら男は、 「鳥が飛んでいきましたねえ」  人の良さそうな笑みを浮かべて言う。見慣れない男である。 「珍しいことだよ」 「へえ、そうなんですか。確かに、この辺りには鳥の巣がありそうな場所なんてないですからねえ――一つお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」 「なんだい」 「この辺りに、傘の墓場、という場所はありますか」  傘の墓場とは、街で使い古された傘が集められる場所である。そうして集められた傘は、"カサ"が仕事に使っているというが、詳しくは知らない。しかし場所ならば知っている。もっとも、街に住む人間ならば常識であるのだが。 「失礼だが、あなたは街に慣れてないのか?」 「ええ、お恥ずかしながら。私は旅をしている者です――ところでお隣はよろしいですか」  男はKの隣に腰を下ろした。 「傘の墓場なら、中央広場から四番通りに入って、五番目の角を右に曲がった先にある。しかしなんだってあんな場所に」 「いえ、面白そうな名前だったので。墓場と言えば普通は人間のためのもので、他にあってもせいぜい犬や猫のそれでしょう。ここに来たのもの、見晴らしが良ければ見つかるだろうと思ったからです。でも、親切な方がいて幸運でした」  食えない奴だ、とKは思う。しかし、ふと一つだけ質問をしてみることにした。 「ところで、旅人さんは色々な所を旅して、色々なことを知っているのだろう。さっき飛んでいったあの鳥、何と言う鳥か分かりますかね」 「ああ、あの白い鳥ですか。生憎、動物の名前は詳しくないもので。お力になれず申し訳ありません」 「いや、ちょっと気になったものだからね。しかしあの色は、白、というのか」 「ええ、白です。白は何ものにも染まっていない色です。まっさらな色です。しかし無色とは違う。無色とはまさしく色が無いことであって、白とはまた違う概念なのです」  雲色と白の決定的な違いは、その純度である。白は白という言葉以外では言い表すことができない。黄色がほんの少しでも混じれば黄色であるし、赤や青も同様である。  旅人はさらに語る。  白と対極の概念は、黒である。真夜中の暗闇よりも深い色で、いかなる色の介在も許さない。いくら赤や青、黄色を溶かしても黒は黒のままである。 「――さて、そろそろお暇させていただきましょう」 「長々と引き止めて悪かったね」  いえ、と旅人は会釈して立ち上がる。 「また道がわからなくなった時には、お世話になりますよ」 「その時は情報料代わりに、また何か話してくれれば結構さ」 「ならまた新しい話の種を仕入れないといけませんね」  眼前に迫る茜空がいつしか夕刻を迎えていたことを示していた。長く引き伸ばされた旅人の影はいつまでも途切れることなく、右に、左に、歩くリズムに合わせて揺れていた。  二  Kが図書館に着くと、既に先客がいることに気付いた。ホールから歓談の声が聞こえる。一人はもちろん鍵の子だ。そしてもう一人の正体は、Kが薄暗い廊下を抜けたときに明らかになる。  見守りがKに気付き、手を振る。 「久しぶり」 「珍しいね、こんな時間に」 「ウチのが妙に落ち着かなくてね。今日は書くことが多かったのよ」 「眠る人は、寝てるだけだろう。何を書くことがある」 「今日も一日よく寝てましたマル、じゃあこの子が納得しないからねえ」  と、見守りは鍵の子を横目で捉え、にやりと笑う。 「そんな下らない観察録なんかに体力を使いたくない」  鍵の子は憮然と言った。  見守りの仕事は、眠る人を観察することである。Kのそれと近いものがある。見守りはK同様、毎日眠る人の観察録を図書館の鍵の子に提出しなければならない。  ところで眠る人とは、文字通り眠り続けている人で、見守りの知る限り一度も目を醒ましたことがないという。 「K、預かるよ」 「ああ」  鍵の子はKから観察録を受け取ると奥へ消えていった。残ったKと見守りは、鍵の子に「また明日」と声を掛けて薄暗い廊下へと消えていった。  無人のホールに、鍵の子がKの観察録を製本する音がこだまする。ばちん、ばちん、とファイルにまとめ、金具で固定する。音は図書館中に響き渡る。ホールの、足の長い赤毛のじゅうたんから一階の一般書庫、二階の専門書庫、そして地下書庫へ。地下書庫へ至る階段は、正面玄関からまっすぐ行ったところにある大階段の裏にある。地下書庫にはKや見守りの観察録が納められ、一般に公開されることはない。地下書庫には一般の書籍も専門書もない。あるのは観察録だけだ。観察録の量はすなわち歴史の長さである。街の創成期から観察録は街の様子を描き続けてきた。納められた観察録の量がどれ程になるか、鍵の子は知らない。製本した観察録は黒の厚手の表紙があてがわれ、金箔で日付と目録が付される。その観察録が地下書庫の本棚に並ぶ様は、果てが見えない程である。それでも一階層では収まらないので、地下書庫は地下へ地下へと延びてゆく。その階の本棚がいっぱいになると、図書館は丁寧にも新しい"地下一階"を作ってくれる。その分、以前の地下一階は地下二階へ、地下二階は地下三階へとずれていく。  観察録の製本は最後に、黒表紙に真鍮の錠を取り付けることで完成される。鍵の子は金槌を振るい、慣れた手つきで錠をつける、。そして、鍵で錠が開くことを確認すると、錠をまわし、鍵を製本室の鍵棚にかけた。鍵棚には歴代の鍵の子らが製本してきた分と同量の鍵がある。幾万か、幾億か。古い鍵ほど奥へ追いやられ、おしなべてすっかり黒く錆びているのだった。  鍵の子はできたばかりの観察録を携えて地下書庫への階段を下る。靴が石段を叩く音が深く深くこだまする。ランプで足元を照らしながら目的の棚の前に辿り着き、観察録を納めると鍵の子はまた来た道を戻っていくのだった、足早に。鍵の子はいつまで経っても地下書庫に慣れることができない。しかしこれからいくら年月を重ねても最後まで慣れることはないだろう。それをおぼろげにも悟ったのは、彼の先代からこんな話を聞いたときだった。  ――何故、観察録が地下書庫に納められるかわかるかね。  ――それは、街が情報を得るためだ。観察録に書いてあることを読んで、自分の周りで何が起こっているのか知るためだ。俺やおまえが、目で物を見て耳で音を聞くように、街もそうやって情報を集めているのさ。  ――どうやって? 暗闇の中から舌が伸びるのさ。本棚から観察録を舌で絡め取って、舌で鍵を開けるんだ。とても柔らかい舌だから鍵穴に合わせて形を変えるくらいわけないのさ。それで舌でページを手繰り、舌を這わせ、インクを読むんだよ。街はそうやって、今まであの膨大な量の観察録を読んできた。そしてこれからもね。  ――おまえの仕事は、その地下書庫に観察録を届けることと、街の者に観察録を見せないことだ。そのための鍵だ。  二階の寝床に着いてからそっと耳を澄ますと、鍵の子の耳には空耳が聞こえる気がする。舌が地下書庫の石の床を這う音が、観察録に巻きつく音が、紙が擦れる音が。 (朝は遠い。)  三  見守りの部屋からは、中央広場へ続く通りを見下ろすことができる。部屋は古びたアパートの四階だ。扉や窓を開け閉めする度に、建物全体にひびが入って壊れてしまいそうになるほど痛ましい音が響く。見守りが見守りになるずっと前からこのアパートは存在し、歴代の見守りはずっとここで眠る人の観察を続けてきた。観察というよりは世話に近いかもしれない。眠る人の寝汗を拭い、数日に一度衣服を換え、寝相を正す。その合間に見守りは部屋の掃除や観察録の作成、提出を行なう。全ては静かに行なわれなければならない。眠る人を起こしてしまわないようにそっと。もっとも、何をしても眠る人が目を醒ませることはないのだが、これは歴代の見守りたちが守ってきた暗黙のルールであった。見守りもかつては、何故、と不思議に思ったこともあったが、今では受け入れている。眠る人の前では全てが静寂のうちに執り行われなければならないのだ。  風もない静かな夜には、見守りは窓を開け何をするでもなく佇むことにしている。そうすると落ち着くからだ。この緩やかな時間のあいだは、いくら弱くなっても悩んでも怯えても良い。誰も助けないでいてくれるから。  見守りは窓辺にもたれかかり、すぐそばの眠る人の髪を梳いてやる。細く柔らかい髪が指の間をさらさら流れゆく。眠る人は心なしか眉間に皺を寄せているように見える。少し悪い夢を見ているのだろう。大丈夫、という風に見守りは眠る人の頭を撫でる。寝息が安らかになる。  しかし眠る人について考えると、時々とめどなくなる。歴代の見守りが見守ってきた眠る人が、伝え聞いた通りの、目の前の眠る人ただ一人であるならば、彼の年齢はゆうに百を超えているはずである。にも関わらず、外見は年端もいかない子どものままなのだ。目覚めることを知らない代わりに老いることも知らず、これまで同様これからも眠り続けるのだろうか。食事も摂らず、排泄もせず、自分やKや鍵の子と生物学的に違う箇所が数多くありすぎる。  一体、この人は何者なのだ?  何故眠り続ける?  何故起きない?  何故老いない? 食事は? 排泄は?  得体の知れない生き物。そう言っても相違ないだろう。しかし一方で見守りはこのような想像もする。  いつかの未来、眠る人が目を醒ます。その薄い瞼を開き、眼球を動かし見守りを見つける。手を伸ばして裾を掴む。思いの外強い力で。  その時、見守りはどんな心地がするだろう?  おはよう、と声を掛けるのか?  恐れおののく?  それはその時になってみないとわからない。  だが、眠る人のことで分かることが一つだけある。それは、眠る人が見守りに対してひどく敏感であることだ。見守りが眠る人のそばにいるかどうかはもちろん、見守りの小さな感情の揺らぎにさえ敏感に反応するのだ。見守りが安らかな心地でいるときは安らかな寝息を立て、見守りの心が揺らげばその小さな額に汗を滲ませる。そういう無防備な反応を見ていて愛おしくなるのは、きっと可笑しいことではないだろう。  見守りは眠る人の手を握る。火照った手は夜の空気で冷えた手に心地よい。  静寂。時計の秒針が進む度に、歯車の噛み合い巡る音が鮮やかに聞こえる。  ――どれだけ眠っていたろう。目が醒めたのは開け放したままの窓から忍び込む空気が一際冷たくなったからだった。壁にもたれていたせいで体の節々が痛い。  夜明けだ。  体をひねって外を見ると、濃紺の空が薄らぼんやりと朝に溶けつつある頃であった。夜の重たい暗闇が昇りゆく煙のように薄らいでいく。それに伴い色々なものが軽くなっていく心地がする。昨夜の静けさ、不安、愛おしさ。  長い長い夢が終わる――そんな気配さえするが、今の生活も眠る人も、街も何も消えたりはしない。いまさら、そんなことに何の感傷も抱かない。  変わらない日々が退屈だと感じたこともあったが、今はただ心地良い。  願わくばこの平和が永遠に続きますように――見守りは片手を胸に添え誰ともなく祈る。