三  砂舟の室に篭って横になり、十も数えないうちにリーンは眠りについていた。夢の入り口はいつでも曖昧だ。醒めた頭なら簡単に見抜けるような虚構も、寝ぼけた頭は暴くことができない。空から白い羽が降れば、疑いもなくそうなのかと思ってしまう。砂漠が一面緑の野に変わればただその美しさに圧倒される。遠くで手を振るのは弟だ。数年ぶりの再会に心が躍る。姉さん、と呼ばれてリーンは頬をほころばせた。そして二人は手を取り合い野を歩く。その脇を見上げんばかりの巨大な砂鯨が悠然と追い抜いていき、象牙色の背中にはちょこんと誰かが乗っている。夢のひと時は楽しい。しかし終わりは唐突にやってくる。  舟が大きく揺れる。街に到着したのだ。その衝撃で壁に肩を打ち、リーンは苦痛に顔をゆがめて立ち上がった。もう少し穏やかにならないものか。ガドに訴えてはみるが、いつも「もっと酷くすることだってできるんだぜ」と返されてしまえばそれ以上何も続けられなくなるのだった。これがもっともソフトな停船の仕方なのだという。  戸を開けると痛々しいほどに眩い光が目に刺さる。 「――今名前を挙げた五人は砂舟をしまったら、獲物を卸せ。場所は後で伝える。それ以外は解散、邪魔だからさっさと帰れ」  舟着場の喧騒と言ったら比類もなく騒がしいものである。各々の舟でめいめいが怒鳴るように声を張り上げるものだから、こちらも相応に声を出さなければならない。船首に立つガドが禿頭で日を照り返しながら指差し指示を出していた。 「リーン、お前は子守だ!」 「ミルクでも飲ませておけばいいかしらね」  旅人が砂鯨を失うとはすなわち足を失うことに等しい。移動手段がなければ人は砂漠を行くことが難しく、街から出ることができなくなるのだ。しかし旅人とは得てして街に不慣れなものである。そういうわけで必然的に送り主が新たな足を紹介するのが暗黙の了解となっているのだ。足を紹介するとはすなわち新しい砂鯨を売る店を紹介することであったり、砂漠を渡る商隊に働き口を口利くことであったりする。屁理屈を言えば別にその場で放り出しても構わない。だが、それをしないのは仁義を重んじるガド幻楽団の長、ガドの方針に他ならない。 「出るほど大きくもないくせに」 「うるさい」  手近にあった巾着袋を投げつける。ガドは笑いながらその巾着袋に小銭を入れると、リーンに投げ返した。 「ほら、べべちゃんが起きてきたぞ」  振り返ると不機嫌そうに顔をしかめたカイが立っていた。しかしその手にはしっかりと砂鯨の耳骨が握られている。一眠りして目が醒め、砂鯨を失ったショックが和らいでくる頃になってようやく、大抵の旅人はこれからのことに頭を巡らせるようになるものだ。カイの様子を見るとまだその段階には至っていないように見えるが、気付くのも時間の問題だろう。 「坊主、身支度をすませな。お姉ちゃんが街を案内してくれるとさ。リーン、お前もさっさと顔を洗ってこい」  それからガドは手の甲で口元を拭う振りをする。はっと気付きリーンも口元に手を当てるが、それがガド一流の冗談だと気付くともはや改めて噛み付く気も失せるのだった。  砂漠の街ザザムールは砂漠の中継地として商流や物流の要となる街だった。街の地下には豊かな地底湖あると言われているが真偽のほどは定かではない。確かなのは街のあちこちにある井戸の水が枯れた歴史は三百年分の歴史書を漁っても見つからないことだけだった。それより以前の歴史を人々は持たない。しかし街自体の歴史はそれより古く、人々がザザムールに根付く前からそこに街はあった。ザザムールは元々遺跡であったのだ。街は議会制を取る。その議事録の最初の一文には『我々以前彼の地に人は無く』の一節が記されている。これが意味するところはつまり、遺跡は山や川と同じ自然の造形であると捉え、過去に遺跡を造った者らの影に蓋をして見向きもしないということである。この街に流れ着いた始祖は他所のはぐれ者であったという。彼らは過去や未来ではなく現世実利を優先したのだ。かくしてザザムールは宗教を持たない街として発展し、その地理的重要性と経済的重要性を年を追うごとに高めていくのだった。人が人を呼び、積もる歴史はそれ以前の歴史を覆い隠していく。しかしそれは表向きのこと。  舟着場から市場まではそう遠くない。小道を抜ければすぐだ。コンクリートの遺跡を泥で補修した軒軒は見回す毎に奇異な感覚をカイに押し付ける。空を覆うのは数多の洗濯物。故郷の祭りでは似たような装飾が旗で代替され空を喧しく覆っていたが、故郷と違うのはこちらは人の生活の香りがすることだった。それでも楽しくなる心地をするのはカイが異邦人だからである。前を行くリーンの肌は小麦色で、日の下で見てみて改めて彼女は街の人間なのだと思い直す。カイの故郷はここより北方にあり、人々の肌は真白とまでは言わないがそれでもこの街よりは随分色が薄かった。南へ行けばもっと黒くなるのだという。  出発してすぐにカイがどこへ行くのか尋ねると、リーンは少年の新しい足探しと言った。それから続けて、お金はあるの、ない、商隊で下働きするのと奴隷になるのとどっちがいい、まだ商隊の方がマシだなあ、じゃあそっちで、とやり取りが続いた後でリーンはくるりと踵を返した。  遠くで喧騒が聞こえる。 「今が市場のピークだからね。離れちゃ駄目だよ」  リーンが振り返る。洗濯物の影で表情はよく読み取れなかったが、なんとなく笑っているような気がした。  小道の細い出口はいかにも眩しく、黒い影が絶え間なく往来していた。間もなく市場に着く。そして一歩足を踏み入れると、喧騒は一気にその音量を上げた。まず初めに、ぷん、と鼻を突く香り、それは決して一様ではなく何種類もの香りで甘いものからスパイスの利いたものまで様々だ。匂いの正体はすぐ隣の露店だ。香辛料の量り売りだった。小娘随分若いの引っ掛けたな、と髭面の店主がニタリと笑うのをリーンが軽くあしらう。匂いと言えば他にも、例えば斜め向かいの店では怪鳥を丸焼きにしており白い煙がもうもうと立ち昇って人々の視線を集めていたし、地面にまで届く紫のローブを被る人々とすれ違うたびに独特の香がカイの鼻腔をくすぐった。あの人々は何かとカイが尋ねると、リーンは、さあね、と素っ気無い。それよりおなかが減った、昨日から何も食べてないのよ。言われてみてカイも空腹を思い出す。最後の食事は砂鯨と共に食べた朝食だ。無数の香りの中で俄然怪鳥の丸焼きの香りが際立つ。香辛料屋の店主がカイの裾を引き、こいつは魔法の粉だ、食べ物にちょいと一振りすればあのトリの丸焼きの旨味は千倍万倍、何せこいつはガドンの香辛料、知る人ぞ知る魔法の粉さ、と口早に耳打つのをリーンが聞きつけカイの耳を引っ張る。カイが痛みに声を上げる前にリーンは、ここは人を人と思わない魔物どもの集まりだ、気をつけなよ、とその耳に叩き込んだ。それから気を取り直してさあ怪鳥だと息巻くカイを無視して、リーンはカイの手を引き怪鳥の丸焼きを素通りにする。あれは食べないのかとカイが不満げに尋ねると、薬漬けのでぶっちょなんか不味くて食えたもんじゃないよ、とリーンはにやりと笑って答える。もっといいものがあるよ、ついておいで。市場を歩いてみると、実に様々な店があることがわかる。ガラス工房の直売店、鉄屑屋、世界怪奇植物を謳う店に立ち並ぶのは腐臭を漂わせる花や七色の蔓、その隣には奴隷商がおり可動式の牢に閉じ込められた老若男女の奴隷たちは一様に隣の店から一番遠い場所で固まっている。散見される路地裏には吐瀉物が垣間見え、砂漠の鳥が群れて啄んでいた。カイはリーンに引かれるまま歩き、ぼんやりと上を見る。空の青。建物群に切り取られた空には雲一つなかったが、砂鯨の背で見たときよりずっと遠く感じた。と、そのとき、どん、と何かがぶつかりカイはよろめき、間髪入れずに背中から、泥棒、と怒声が響く。人々が割れ、空いた道をカイより幼い少女が風より速く駆けていく。ここじゃ盗られる方が悪いのさ、とリーンはほくそ笑み、人々は何事もなかったかのように再び行き交う。振り返ったカイは盗られた男と目が合った。恰幅の良い金持ち風の中年男だった。男はカイに向かって手を払い、相当苛立っている風に見える。あんまり構うんじゃないよ、とリーンは吐き捨てる。世界にはこのような場所があるのだなとカイは不思議と冷静に胸のうちで呟いた。  二人が進むに連れて喧騒はますます高まる。市場の中心へ近づいているのだ。市場は中央広場から放射状に五本の大通りが走っている。その中央広場のまさに中心に立つのは女神像だ。双蛇の巻きつく杖をかざし、月桂冠を被っている。古い言い伝えでは商業を司る神だということだ。現世実利を謳うザザムールにあって唯一の宗教らしい宗教だった。しかし今やその意味を知るものはほとんどなく、街の古い老人たちがかろうじて口伝するに留まる。カイはもちろん、リーンも知らないことだ。ガドも知らないことだろう。  リーンはカイの手を引き広場を抜けるとまた別の通りに入っていった。 「ねえ、ここで手を離したら迷子になる?」  不意にリーンが口を開く。 「もうずっと迷子みたいなもんだ」  そう――呟いたリーンはふっと握る手の力を緩めた。水が流れるように、カイの手からリーンの手が零れ落ちていく。落としてしまう間際、カイは反射的に手を握り止めた。 「素直でよろしい」  そうしてフイと顔を背けるリーンの背中を見てカイはこの上ない敗北感を感じるのだった。どうあっても自分は人であり、人の中で生きることの何たるかを垣間見る。  カイが俯き下唇を噛むうちにリーンの足が止まる。 「さ、着いたよ」  顔を上げてみれば、そこは小さなベーカリーである。両手に腰を当て自慢げにするからには相当の自信があるのだろう。いつしか喧騒は弱まり店内から漏れる酵母の香りが空腹を思い出させた。店番をしていたそばかすの娘がこちらに気付き手を振った。リーンは手を振り返し、中へ入っていった。 「久しぶりねえ」 「最近、ちょっと忙しくてね」 「そっちの子は?」  娘はひょいと身を乗り出し好奇の眼差しでカイの頭からつま先までを視線を往復させる。 「砂漠の迷子。後で商隊を紹介しないと」 「なあんだ」 「カイ、この子はリル。このベーカリーの看板娘」  よろしく、とリルが頭を下げるのでつられてカイも頭を下げる。 「それよりリル、私、おなかが減っちゃった」 「待っててすぐに用意するから」  リーンが腹に手を当てると、リルはくすくすと笑いながら厨房へ顔を突っ込んだ。入れ違いで出てきたのは一目でリルの母親とわかるおかみさんだ。目尻に浮かんだ皺は加齢によるものではなく年中にこにこしているせいでできたものだろう。 「あの女ったらしは元気にしてるかい」 「少しは大人しくなって欲しいくらいだよ」 「赤玉が出るまでは無理だろうけどね」  そしておかみは大口を開けて笑う。すると厨房から、うるさい、と怒鳴られ鸚鵡返しに、うるさい、と怒鳴り返す。カイは顔を背けた。 「余っても困るからね、かっつり食べておくれ」 「今日は経費で落ちるから頑張るよ」 「じゃ、お土産もつけちゃおうかね」 「赤蛸が真っ青になるのが楽しみ」  店内はこじんまりとしているが手入れが奥まで行き届いたつくりになっていた。それでも天井には黒い配線コードがぎっしりと敷き詰められ、百合をあしらった照明をもってしても無機質さは拭いきれない。 「リーン、お待たせ」  リルが店の奥から顔を出す。 「食事の時間ね」  リーンが鼻の穴を膨らませる様子を、カイはぽかんと眺めていた。  奥に通されるとそこは家族の居間らしく、店内とは違った種類の温かさがあった。テーブルクロスを敷いたテーブルには、バゲット、クロワッサン、ペストリー、と多種多様なパンが並べられている。添えられたコーンスープにはパセリが浮いていた。携帯食料が常である旅をしていれば、一度は憧れる食卓の風景だ。椅子について手を合わせるのは久方ぶりである。カイは神の名を呼びパンに手をつける。一口。麦の甘みを舌全体で味わい嚥下した。その様子をじっと見詰めていたリルに、カイは会釈する。ゆっくりしていってね。リルは目でそう言うと、再び店へと戻っていった。 「いい人たちでしょう」  雨風を凌ぐ屋根に手作りのパン、家族。 「故郷を思い出す」 「ここからだとどれくらいかかるかしらね」 「さあ。出鱈目に行ってきたから」  これらが懐かしくないと言ったら嘘になる。しかし郷愁は常に羨望や憧れを伴うとは限らず、時として痛みを導くものだ。故郷を愛しく想うものは故郷に愛されているものである。帰っても居場所があると思うからこそ帰りたいと思える。しかし故郷を失くした者、とりわけ自ら背を向けた者にとって郷愁とはそもそも胸に秘めること自体が彼の意思に背く。帰らないと決めたからこそカイはここまで来れた。およそ一年で、随分遠くまで来たものだと思う。 「帰れる場所があるっていいよね」  リーンは食事の手を止め、カイはそれを上目遣いで捉える。 「――身の上の不幸話なら勘弁してよ。せっかくの食事が不味くなる。あと、説教もいらない」 「そうやって、根無し草を気取るのは楽しいの?」 「好きでふらついているわけじゃない」 「私は根を張りたくても張れなかった、今の生活だって死に物狂いで頑張って、やっと手に入れた」 「俺には関係ない」 「ええ関係ないわよ、全部私の勝手な僻みだもの」 「何が言いたいのさ」 「……わからない。ごめん」  リーンは手で髪をかき乱し、クロワッサンを頬張る。俯き、咀嚼し、飲み込み、涙が滴り、間もなく嗚咽を漏らし始めた。はぁ、美味しい。かすれ声で呟く。  ――勘弁してくれ。カイは胸の内でため息をつく。  自分の何かがリーンの気に障っていたのならカイは謝ることもやぶさかではないのだが、しかし一体この状況はどうしたものかと思う。ガドを初めとするガド幻楽団の面々、とりわけ歌い手のリーンは自分に良くしてくれたものだと、感謝の念ならいくら重ねても足りないくらいだと思うのだけれど、個人の事情にまで立ち入れるほどの関係ではないと少なくともカイは考えている。行きずりの関係で背負う、あるいは背負うべき次元の話ではない。それはリーン自身が一番良く知っていることのはずだろう。 「……帰れる場所があることと、帰るべき時が来ることは別物だと思う。たぶん、俺が今すぐ帰ったって居場所はあるだろうし、そこで生きていくことはできるだろう。初めからそうすることだってできた。けれど、いつだったかな、ふと気付いたんだ。ああ俺ってこうやって毎日ここで暮らして誰かと結婚してガキ生んでオッサンジジイになってそのうち死ぬのかな、って。もちろん最後まで生きていられるかわからないけれど、何もしなければまず間違いなくそういう人生になるのだと思った。うん、悪い話じゃない。疑問に思いさえしなければ。そうやって普通に生を終えた後には何が残る? 財産? 子供? こういう考え方がシシュンキ特有の奴なのかどうかわからないけれど、ともかくそういうことを一度考えてしまったからにはもう安穏とは生きられないと思った。だから故郷を出た。白黒はっきりさせるまでは帰らないって約束もした」 「それは砂鯨との?」  カイは頷く。 「そんな約束、守って誰が得するんだか」 「損得の話じゃない」 「じゃあ見栄の話ね」 「ただの見栄だよ。約束結んだ相手ももう死んだ、滑稽な一人芝居さ、一人でばかみたいに意地張って、誰からも見向きされない、けど守らなきゃいけないんだよ」 「とても辛そうに見えるけど?」 「俺が辛い苦しいなんて問題じゃない」 「全然わからない」 「わかられるつもりもない」  リーンはぐっと息を堪える。その間もカイは黙々と食事の手を進め、とうとう最後のクロワッサンに手を伸ばした。 「貰うけど、いい?」 「……どうぞ」  憮然と顔を背けて頬杖を突くリーンをよそに、カイはそのクロワッサンも食べ終え、そっと手を合わせた。  二人が発つ間際、空っぽになった皿と籠を見てリルは、すっげぇ、と感嘆の息を零した。おかみはリーンにクロスを被せたバスケットを持たせた。また来なさいよ、というおかみにリーンは親指を立てて答える。その隣でカイがリルとおかみさんの二人に深々と頭を下げると、二人は当惑しように顔を見合わせた。  店を出ると日は天頂を過ぎた頃だった。峠を越えた太陽はじっくりと砂を焼き、上と下から熱が迫る。人々の出す湿気と相まってリーンとカイは汗が玉のように噴出すのを感じた。ここは建物に囲まれているせいで風通しが悪いのだ。 「さて、行きましょうか」  歩き出すリーンに対してカイの足取りは重い。 「どうしたの、気分でも悪くなった?」  カイは首を横に振る。違う。 「これからのことについて、考えてた」 「これからのこと」 「どうしようかなって。少し、身を落ち着けて、ゆっくり考えたい。商隊にくっついて、どこかに行く前に、ゆっくり」  言葉を選ぶカイの目線は足元を泳いでいる。カイの中で、どのような言葉が候補に浮かんで迷った末に消えていったのだろう。我侭と申し訳なさの狭間でカイは揺らめいている。そういう様子が読み取れたからこそリーンは、不思議と寛大な心地でカイの様子を見守れた。おそらく自分はこれからカイの言う全てのことを否定しないだろう、とリーンは予感する。ほとんど確信に近い気持ちで。あせらないで、ゆっくり、言葉を選びなさい。 「落ち着くったって、そんな場所ないし、お金もない。だからもしよかったらで――いや、なんでもない」  カイはふいと顔を振り歩き出す、と思った矢先に踵を返し、いよいよ意を決したようにリーンの顔を見据えて口を開いた。 「もし働き口を紹介してくれるなら、商隊じゃなくて街の中がいい」  これがカイの精一杯の妥協点だった。まぁこれがせいぜいか、とリーンは思う。この話をガドに教えてやれば、あの禿頭の三ヶ月分の酒のつまみにはなるだろう。ちょっと生意気だとよりそそる――今朝の会話を思い出し、自分もさほど変わらぬ同類かと思うと肩を落とさずにはいられないが、それさえも自分がこの地に馴染んだ証拠と思えばこそ少しばかりは心が広くなろうというものだ。 「――うちのメンバーは今、私と団長を含めてちょうど十二人。このうちの八人がね、元々うちのお客さんだったの。みんな砂鯨を亡くしてね、行く宛てもないところをあの団長がリクルートしたのよ。言葉巧みに『三食と寝床の面倒ぐらいなら見てやってもいいぜ』ってね。そうやって悪魔の囁きに誘惑された結果、みんな団長にいいように使われてるってわけ」 「奴隷か」 「可憐な美少女がいるんだから地獄にはならないでしょうけど――まあそんなわけだから、うちの禿頭に口利いてあげないこともないよ」  いつの間にかカイから目を逸らしていたことにリーンは気付く。宙を彷徨っていた視線をカイに戻してみると、その目は月よりも円かった。やはりこういうところは年相応なのだろうか。急に子供じみた風に見えて、リーンは胸の隅が痛むのを覚える。 「よろしくお願い、します」  舟着場までの帰り道は市場を通らないルートを通る。市場の喧騒からだいぶ遠いその道は広々としており、砂漠の稜線さえ見えた。その途中、カイとリーンは車を引いた幻楽団のメンバーとすれ違う。布を被せた荷台にあるのはカイの砂鯨である。中身は見えないがおそらくそうなのだろうとカイはリーンとメンバーのやり取りを聞きながら思った。彼らはこれから砂鯨を卸しに行くのだという。  一緒に行く?  リーンに訊かれ、カイは迷いながらも頷いた。卸してしまえば、誰も砂鯨をカイの親友と見なくなるし、そうであったことに想いを馳せる者は誰もいなくなる。耳の周囲を掻いてもらうのが好きで、普段は隠れた腹にかつて砂狼から逃げるときに負った傷があり、そして心を持ちカイと対等に約束を結ぶ意思を持つ誇り高い砂鯨であったことはカイしか記憶しなくなる。そんな気高い砂鯨がただのモノに成り下がる瞬間など好んで見たいとは思わない。それでも行くと決めたのはけじめをつけるためだった。  そんなカイの様子を察したメンバーの一人が、肩肘張らんでも大丈夫さ、とからからと笑う。縁の厚い帽子を被ったひょろ長い男だった。  道すがらリーンと男たちは他愛もない話で盛り上がる。その後ろを三歩遅れて歩くカイは、荷台の盛り上がった布を眺める。あれほど巨大だった砂鯨が実はこんなにも小さくなるということは、カイの知らないことだった。  車は広々とした道を途中で曲がり、市街地へ入っていく。そこを抜けて辿り着いた先は、小さな学校だった。校庭に出て遊ぶ子どもの数はぱっと眺めた限りだと三十に満たない程度の数字である。校舎の前に立つのは老齢の夫婦だ。学校運営はこの二人が担っているのだろう。やあお待ちしていました、とどちらともなく始まった挨拶はじきに交渉へと変わり、老父は荷台の布をめくるとしげしげと"商品"のチェックに念を入れる。お茶でも淹れましょうかねえ、と言う老婦にリーンは愛想良く、お構いなく、と言い世間話に花を咲かせた。間もなくカイたちに気付いた子どもたちがわっと集まり、ねえこれは何、太鼓だ、ばか違うよこれはティンパニーだよ、てぃんぱにって何、ティンパニーとは打楽器の一種で、あ笛だ、お肉だ美味しそう、こっちの壺は何、こらこらお前たち静かにしなさい、老父がたしなめるのを聞く者はいない。砂鯨のティンパニは素手でどんどんと叩かれ、カスタネットは奪い合いの対象になる。その様子に圧倒されるカイの裾を引くのは、子どもたちの中では比較的年上の女の子だった。これは誰の砂鯨? 俺のだよ、とぶっきらぼうに答えると、そう、と女の子も素っ気無く答える。それからぼんやりと砂鯨の楽器たちを眺めると、大事にするね、と歯を見せて笑った。  そうしているうちに交渉の方がついたらしく、荷台はことことと校舎の中へ入っていき、その後ろをカイと女の子と子どもたちがついていく。着いた先は狭いホールだった。リーンたちは楽器を荷台から下ろすと、そのうちから適当に楽器を見繕い手に取る。誰からも指示されることなく、自然と子どもたちは環を作り、つられてカイもその中に加わる。  演奏会が始まる。  リーンは時に歌い手として、時にナレーターとして会を進め、またある時は楽器を手に取り一緒に演奏した。リーンがこの場に来なければ、代わりを誰かが務めていたことだろう。演奏が終わるたびに子どもたちは拍手や歓声、曲によっては一緒に手を叩いて拍子を取ったりしたし、最後の曲目は皆で一緒に歌を歌った。カイの聞いたことのない歌だった。  演奏会が終わり、子どもたちに手を振られて校舎を後にしたのは夕暮れも近いころだった。去る間際に、先ほどカイの裾を引いた女の子が、カイの耳にそっと耳打つ。いい音だったわ。これでありがとうと答えるのは野暮ったい。そう考えるカイは、ふと思いつき、懐から砂鯨の耳骨を取り出し女の子の手に握らせた。これは? 目で尋ねる女の子にカイは拳を耳に当てるジェスチャーをする。真似する女の子はしばらく不思議そうにしていたが、じきにアリアが聞こえてきたらしく、ぱっと顔を明るくして瞼を閉じ、ゆらゆらと調べに身を任せていた。それからおもむろに目を開き、にっこりと笑う。 「ありがとう」